紺溺

 その少女の幸福は追憶の中だけにあった。あたたかな家族の中の、さらにひときわあたかいものとして、愛され、慈しまれていた時の自分。オレンジに包まれてわらっていた時の自分。お父さんとお母さんの手にいつも保護されていた小さな両手が孤独に震えることがあるなど、あの時は思いつきもしなかった。

 ある日両親に手を引かれ水族館に行った。明るい自然光の中をちらつく大小さまざまの魚影も素敵だったけれど、一番少女を虜にしたのは、くらい展示室の中にしずかに佇んでいる物言わぬ深海魚たちだった。明るいオレンジの光しか知らなかった彼女にとって、紺の影に包まれたその場所は初めて瞳に映す色彩だった。少女はその小さく丸い目を一杯に見開きながら、紺一色かに見える水槽のスクリーンに何とかおさかなの姿を見出そうと躍起になり、小さく区切られた水槽をあちこち覗きまわった。そうしていつしか生まれて初めて両親の手も放し、彼女はその展示室の一番奥に到着していた。ながい廊下の一番奥の、一番静かなところ。
 多分だけどそれは夢か幻覚かウソか見間違いか、何せ現実の出来事であることは絶対にないのだと思うが。壁の突き当たりのところの、その中身にしては明らかに小さすぎる水槽(もっともそのころの彼女からしてみれば十分すぎるくらい巨大だったが)の中には、大きなクジラがこれまたほかの魚たちと同じように、静かに、静かに佇んでいた。その水槽の周りには誰もいなかった。彼女の両親もついてきている様子はなかった。少女は、その幼さゆえに、目の前の光景の異常さには何ら気づかないで、ただただ無邪気に、これまでと同じように、その大きな生き物の輪郭を夢中になって目でなぞっていた。クジラも、自分の異常さをほのめかすこともせず、彼女を底の知れない瞳でじっと見つめた。どれだけそうしていたのか知れない。気づくと、彼女の周りを、オレンジと水色の小さな魚がぐるぐる旋回していた。空中を、である。でも無邪気な少女は、何ら驚かないで、オレンジの魚をおそらくはつかもうとして、小さな掌をのばした。オレンジの魚は怒ったように素早く逃げて、水色の魚はおびえたように小刻みに彼女から遠ざかった。

 そのさかなたちはにんげんをにくんでいるのです

 どこからか声がした気がした。少女は理由なく、クジラの声だと思った。すると小さな魚たちが、長い廊下の出口のほうへ彼女を案内しようと、または追い出そうとするように、ゆっくり泳いでいった。少女も自分の両親のことを思い出したのか、クジラに小さく手を振って、足早に魚の後を追った。

 彼女はそして、帰りの車のチャイルドシートの上で目を覚ました。母が、あらあら起きたのね、と自分をのぞき込んでいた。彼女はそこで初めて疑問を覚えた。いつの間にか自分があの水槽から戻ってきていたことにではない。人間を憎んでいるといったあの魚たちの空間に自分が入り込めたことが、彼女にとっては、不思議でしょうがなかったのだった。

 両親の死はその奇妙な記憶を片隅に追いやるに十分だった。彼女を学校まで迎えに来る途中での玉突き事故に巻き込まれ、あっけなく二人は命を落とした。
 唯一の肉親である叔母夫婦に彼女は引き取られたが、新しく子供が生まれたばかりの一家にとって少女が邪魔であったことは想像に難くない。皮肉にも自分がずっと包まれていたオレンジの光の陰りの中に、彼女は追いやられてしまった。
 加えて『変な時期に転校してきた少女』は学校でも疎外の対象になった。彼女が、彼女の両親について言及した女の子とちょっとした騒動を起こしてからは、疎外は迫害に変わった。

 彼女の居場所はもうどこにもなかった。それでも生きていかなければならない彼女は、しょうがないからいつもいつも紺色の影の中に溶け込むよう努力した。彼女は笑うことがなくなり、代わりにたびたび窓の外のガラスの向こう側を見つめた。彼女は人間というものが大嫌いになっていた。

 さかなたちはにんげんをにくんでいます

 それからしばらくの間、彼女は死んだように生きていた。ほとんど、陸に打ち上げられた魚と同じようなものだった。まだ死んでいないがいつかは死んでしまうだろう。
 しかし、どこからかあの水族館が閉館したという噂を聞いて、なぜか彼女は今までにないくらい使命感とでも呼ぶべき感情に燃え、それからすぐに電車を乗り継いで水族館跡に来た。
 何年ぶりになるだろうか、そこはほとんど廃墟といってもいいような崩れ具合で、彼女の思い出の中の水族館と整合が取れるような場所なんてないはずだが、少女は迷うことなく歩みを進め、かつて深海魚たちの泳いでいた展示室へとやってきた。特徴的な丸くて小さな水槽だけがかつての姿を残していた。彼女はガラスに映った自分の目を見た。そこには、かつての無邪気な少女の目はなかった。
 少女はつまらなそうにすぐに目を離すと、なんのためらいもなしに、展示室の壁へと飛び込んだ。

 彼女はあの日の廊下にいた。ずいぶん長いと思っていたのはどうやら子供から見ての話だったらしく、少女がいるところから廊下の先まで十分見通すことができた。
 そこには、いつかとかわらないままに大きな大きなクジラがおよいでいた。そして、いつかとかわらないままに底の知れない目で少女を見ていた。
 しかし、相違点が一つだけあった。水槽の中に無数のちぎれた人間が、紺色の闇の中に浮かんでいる。魚のように泳げないそれらを彼女はとても滑稽に思った。
 少女は大股で水槽に近づくと、ガラスの下に手をかけて、思い切りそれを上に引き上げた。ざばりと水があふれ、死体たちは踊るようにして流れにのまれた。ガラスの隙間から少女は水槽の中へと滑り込んだが、クジラはひるむ様子もなく空中に浮かんでいた。幼いころ同様に、少女はそれに驚く様子もなかった。
 ガラスが閉まると、足元から再び水が満ちてきた。少女は恐れもせずに、クジラの姿を目でなぞっていた。
 魚たちは人を憎んでいる。私も人を憎んでいる。
 私があの日この場所に入り込めたのはそういうことなのだ、そう少女は思った。自分に救いの手を差し伸べてくれるのは目の前の大きな生き物しかいないと、何の根拠もないのに本気でそう思った。
 ついに少女の全身が水につかってしまった。少女は目をつむり、水の流れが自分をゆらすに任せた。

 クジラは大きく口を開けて、少女を飲み込んだ。

 ほかの死体たちと唯一違うことといえば、クジラは少女を残さず食べたというだけだった。
 水槽の中には再び紺色の水が満ち、クジラは何事もなかったかのように再び水槽の中にたたずんでいた。

《END》 

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